賃金労働における自由とピンハネの根拠-「そうだ、右翼になろう」

そうだ、右翼になろう。

(ただ..あまり今まで右だの左だのという事で物事を考えたことはなかったけれど)

今、平成天皇の退位によって元号が変わろうとしている。

以前は西暦と元号の年を使い分けるのを煩わしく感じていたけれど、

今は逆に西暦に一本化されるよりも元号というローカルな年号もあっていいんじゃあないかと思う。

ローカルであるという意識は必要だと思う。

年を取って(64歳)、

あの父、あの母のもとに生まれ育ったこと、

いろんな人に出会った事、

とにかく、いろんなことがあったけれど、

それらのことは自分の中にきわめて自然に位置を占め、今までその都度の現在へ微笑んでくれて来たような気がしている。

ただ、右翼の人たちの中には「美しい日本を取り戻す」とか言い出したりする人たちがいる。

あの言葉を聞くと何か屈辱を感じる。

あれは特権階級が自らも使用し、他の日本人たちへもばらまくアヘンだろう。

とにかく汚らしい。

右翼から特権階級(強大、強力な忖度を行使する人たち)をすべて排除してほしい。

美しい日本という言葉が実践している行為は過去を汚す行為だ。

インターナショナルの歌と君が代の歌ではどちらがより居心地が悪いかと言えばインターナショナルのほうであるが、それは歌うことによって沈黙を維持するのには君が代のほうが楽(らく)という意味だ。

君が代もなくしてほしい。

君が代はローカルを否定している。

今は素直に歌える歌と場所が無い。

カラオケルームでさえ何か居心地が悪い。

プライバシーの中にも無意識へのアタックが続けられている。

まあ翼などとそんな立派なものでなくてよい。

過去を侮辱せず、辺境を生き、

国境を超えるときには、それまでの正義をいったんクリアにして考えられる人でいたい。

 

 

 

 

 

賃金労働における自由とピンハネの根拠_寄付

寄付は嫌いだ。

寄付をしても私の手に何も残らないどころか、

むしろ残ってしまいそうなそれは、それが私由来のものであることを認めたくないような居心地の悪いものである。

その居心地の悪さを打ち消すために「寄付?それがどうした!?」と繰り返す羽目に陥りかねない。

バザーなど、何かとの交換であれば、その何か痞(つか)えた感じが少しはごまかせる感じがする(あくまでもゴマカシ)。

なんか選挙に行った時のむなしさにも似ている。

おそらく寄付という行為が自然に受け止めらけれるためには、その投資、投企がかなり現実的なものとして捉えられていなければならない。

例えばその投企投資としての寄付が失敗で終わることもあるだろう、しかしその結果が寄付をしたものにどれだけ現実的に受け止めることができるのだろう?

あるいはその社会への帰属の確実さが必要となる。

賃金労働における自由とピンハネの根拠_悪と正義

人が悪を成すその根拠(背景)は”家”や”一族”ではないか。

悪とは法を犯す犯罪のことではなく、”人々”にとって良くないことである。

つまり悪を成す者もすでに共有している何かがあって初めて悪を成すことが可能になる。

いきなり宇宙人がやってきてどんな破壊行為をしてもそれは悪とは呼ばないし、

一人の異邦人が訳も分からず迷い込んできて、空腹に任せてスーパーの食品をお金も払わず食べまくっても、それを悪とは呼ばないだろう。

貧困で孤独な老人がコンビニで食べ物を万引きしたとしてもそれを悪とはいいがたい。

かつては法を犯すことと悪は重なっていることが多かったのかもしれないが、

今のように法が増殖して多くなって、また一部の人たちの恣意性があからさまになっている状況では法の違反と悪は関係ないものになっているのではないか。

悪の家の事情に対して、正義は全体性が前提である。しかしその全体性の不可能性が正義の弱点になる。

日本の正義は世界に通用しない。アメリカやヨーロッパ、中国、ロシアの正義も世界に通用しない。世界に通用する正義は世界全体に承認されたものでなければならない。

自分の(国の)身を守るためには政治的に自己正当化もある程度必要なのかもしれない。しかし必要以上の自己正当化、自分こそが正義であると言い張るのは馬鹿にしか見えない。

“善”はもっと限られたものである。自分の身の絶対的安全の証明行為に過ぎない。

 

 

 

 

 

物とは何か(4)

「道具、機械は高価なものであってはならない」

これは反動であろうか。

たとえそれが値段が高いものであったとしても、

その高価であるということに寄り添ってしまってはならない。

安物の道具を扱うのと同じように、自分の行為において一時的にかかわるものに過ぎない、そういう扱いでなければならない。

どんなに複雑な機械であっても、とても単純な道具を使うのと同じように自分の側が考え、動き、投企しなければならない。

高級車に乗って、それっぽい顔つきになっちゃっている奴はアホだ。

(私も高価なものを購入したその時点では結構アホになっているのだろうけど)

 

賃金労働における自由とピンハネの根拠_夜

夜は美しい。
一つの灯りと、
それに照らし出されたものは
ただそのままの姿を見せているだけである。
見えるものは見え、
見えないものには言及しない。
言及されないただ暗く何も見得ないというだけのその影を携えるかのように、
私も、
私が私なりでしかない、というそのままを歩いてゆこう。

私は世界というこの川から毎日水をくみ上げなければ・・と思う。
しかし実際私の立っている舞台ではそんなことが無視されているようにも感じる。
世界とこの舞台は分かちがたいもののはずなのだが。

やがて私が降りるのはこの舞台の上からだけではない。
その客席からも立ち去ることになるだろう。
照明が照らし出すことと、観ることが区別されないがゆえに、
光の当たるということがあり得ない客席。
いつも、
ふと、暗いそこを見れば、
その席に人はいない。
人がいたのは、
忘れかけた過去の中だけだ。

だからこそ、
毎日水を汲み上げねばならない。

物とは何か(3)

乾電池を交換する夢を見た。

乾電池のあの重さは
電池切れになってもほとんど軽くなることはないそうだ。

(ゼロというわけではないらしいが)

 以前から、電池切れだと思い、新しい電池に入れ替えたがやはり動かないというようなことは何回もあった気がする。
何か別の原因で動かないのならば、あの電池切れだと思って出した電池はまだ使えたのだろうか。
入っている電池が古いのか新しいのかわからなくなりそうなので、新しく入れた電池を出しておこうか。
いや、そうやって出した新しい電池だって一度封を切って出してしまったものだから、使用済みなのかどうなのかわからなくなってしまうのではないか。

単一2個入りのパッケージ、その一つづつの重さを感じながら、
左右の手につかみ、ひねって取り出す。

さあ、電池を入れ替えよう。それで動けばOK。

動かなかったら、

さあどうしよう。

(取り出した電池もそれなりに重さがある)

モノとは何か(2)

モノ作りの職人

職人はなぜ黙々と物を作るのか。
物は人と違って裏切らないから?
うまくいっても、うまくいかなくても、ごまかしようのない現実が目の前に突き付けられるだけ?
人(職人)は黙ってそれを受け入れるだけ?

物質に特に支配的なもの、重力、粘性。
物質×人間に支配的なもの、希少性、大きさ、毒性などかな。
色は除外されるね。

しかし、うまくいったとか、いかなかったとかいう結果=評価は物ではなくて事だよね。
確かに工業規格では寸法、表面の仕上げ、色など厳密な可否が可能である。
しかしそれらの適用、約束は人為的なことである。
職人は約束、契約からも逃れる何かを”物”に見出そうとしていないか。

職人は”事”もきちんと見据えていかないと行き詰って自殺に追い込まれるのでは?

賃金労働(サクシュ)における自由とピンハネ(税金等)の根拠_帰属

私は何にどの程度所属し、帰属していると言えるのだろう。
国家、民族、宗教、親族、家族、地域、などなど。
それともたまたまそこに居合わせているだけなのか。
だとすれば、所属すべきものは何も成立しなくなってしまう。
何かに帰属していれば何かしら正統性が与えられる気がする。
しかしたまたまその場に居合わせなければそんな正統性は特にいらない気もするのだが。
いろいろな場で私は何かしら正統性を要求され確認されているという気もしないではない。
そういう負担感をなくすためには「世の中で俺が一番偉い」と言い通すという手もあるかもしれない。正統性の要求に対して先手を打つという事。
公務員は正統性を先行できればそれでOKだろう。政治家は結果を出してそれを正当化しなければならない(「私こそが正しい!」)。賃金労働者はまずお金を稼いで、そのあと消極的自己正当化が必要だろう(「私は別に悪くないよ」)。

“モノ”とは何か

1)今現れたとりあえず”もの”としか言いようのないもの、その場が前提としていないもの、今ある知識で認識してしまってはいけないもの。
1)-1)物の怪
得体のしれないもの、生き物なのかそうでないのかもわからない。とりあえず名前を付けてみるが、既存の体系に現実的に繋がってこないダジャレのような名前にしかならない。なぜならば、その名前によって”得体のしれない”という意味を殺してはならないからだ。その物の怪の背面は闇に明け渡されていなければならない。

2)固有名、具体性を取り去られて使われる”モノ”という呼称
2)-1)
「事物から全ての”事”を取り去っても残る”物”がある…」
などと言わなければならないとすればその理由とは何だろう。
理由その(1)(現状の)”事”に対する消極的否定
理由その(2)”物”を最後の砦とした抵抗、開き直り
ちょっと反動的

3)代名詞として
4)総称として
5)IoT=Iinternet of Things
この場合のThingsはインターネットにつながれた端末機器のこと。
「”物”をどうすべきか、どうできるのか」という、インターネットが広がり、スピードを増してゆく情報交換の現状の側からの課題。
(課題としてほかにも宅急便、3Dプリンターなどがある)
6)ものづくり
「ものづくり」の「もの」は資源を指すのではなく製造物の総称である。
国家がある権利を維持するために技術力、労働力などの”事”を”物”に分かちがたく合体させるという方法があるだろう。
7)断捨離
“物”は”事”をもたらす。物が喜びをもたらすこともある。
しかし私は時々ヒステリックに断捨離をしたくなる。

賃金労働(サクシュ)における自由とピンハネ(税金等)の根拠_文化と正義

テレビでヨーロッパの上流階級の家へ嫁いだ日本人女性の取材をしていた。
上流階級とそこで維持される文化、それが私には単なる観光資源にしか見えなかった。

観光資源だけではなく”文化”は”正義”の後衛の役割もなしうる。
背後に高度な文化のある正義とそうではない正義とでは前者の方が正義としてより強いだろう。
文化によってその人の主体を認知させやすくなり、より神の側に近いところへ立たせるのではないか。
(それはより文化の発達した側の言い分に過ぎないかもしれないが)
それら”観光資源として”、”正義の後衛として”、などは文化にとって結果的に付随して得られるものに過ぎないのか、それとも文化にとってもっと本質的な動機なのか?