ボルタンスキー

戦争後の人たちを分類してみると、

1)戦争に勝って生き残り、戦利品として”正統性”を手に入れた人達。

2)殺された人たち。

3)正統性なく生き残った人たち。

私はボルタンスキーはあまり好きではない。

彼が扱っているのは死者ではなく、遺体である。

彼のように遺体を積み上げられるとつらいものがある。

相手が死者であれば、もっと穏やかなやり取りがありうるのではないか。

日本では亡くなった人を火葬するのが一般的になっているが、西洋ではそうでもないという話を聞くと、そのせいではないかもしれないと思う。

ボルタンスキーの作品はユダヤ人への虐殺へと連想されやすいが、ユダヤ人は先祖の遺体を埋葬した位置から決して動かそうとしないそうだ。(ボルタンスキーの展覧会を見た後、美術館のグッズ売り場で購入した養老孟司の「身体巡礼」という本に書いてあった。)

(日本の火葬の普及は核家族化とマッチしているのかもしれない。)

日本でもバラバラな遺体を思わせる作品を制作する人がいるがあれらは意味の派生、対話を禁止する。見る人に単一な反応を強いている気がする。

有ったことを無かったことにしてはいけない。しかし、視点は常に私の足元、今、私の体重のかかっている点からであるべきだ。

私はときどき亡くなった私の家族、父、母、兄のことを思い出すことがある。私が家業を継いだせいももあるだろう、『あの時、父は今の自分のこういう気持ちと同じだったかもしれないなあ』というふうに。

遺体はもっと物質文明的にとらえるべきなのだろうか。

以下、詩として

” ボルタンスキーのロケットは

一時(いっとき)その横腹を見せた後、旋回し、過去へと飛び去ってゆく。

決して爆発することの無い過去へ、延々と。 ”

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