そもそもその境界線に根拠はあるのか、正統性はあるのか、どうあるべきかなど。
国境を越えようとする難民にとって、それを問うている余裕はない。
また観光のために国境を越えるものにはそれを問う必要はない。
とにかく行く手に境界線がある。軍事政治的にだけではなく文化的にも。
文化はある階級、階層、血族やローカルなエリアで生まれ育まれる。
その文化が越境するとき、支配的になる(俺が一番)かサブカルチャー化(とにかく売れればよい)するというパターンがあると思う。
しかし文化自体が外へ出てゆこうとしなくても、情報はあまねく伝わってゆく。
そういった視線にさらされる宿命にある。
その時文化はローカルなその場所で観光資源となって繁栄する(生き延びる)か、あるいは門外不出、秘密結社になるか。
情報、金のグローバル化によって境界線はなくなるわけではない。
境界線を手続きなどによって”距離”に変換できるのならば、観光は続けられる。
多分、観光資源を枯渇させずに維持させるのに国境が一役買っているのだろう(それだけではないが)。
国境の正当性をその歴史に求めることは不可能なはず。
むしろ今生きている人にとっての国境を超える際のリスク、投機、リセット、故郷を鳥瞰すること(できること)などが国境の存在意義となっている。