時代劇の人気は、わかりやすい運命論にある。
現代における運命というのは、物語の中、もしくはタレント、スポーツ選手という虚構の中にそれを観ようとされているようにみえる。
たとえば2012年の笹子トンネルの崩落事故は設計ミス、保守管理、安全管理の怠慢、不備等、人為的な事故と言えるものであったけど、あのトンネルを通る者は誰があの事故に遭遇してもおかしくなかった。
なぜあの人たちが被害を受けなければならなかったのか。
人災、人間の行為や怠慢による事故には間違いないのだが、しかしだれがあの事故の犠牲になるのかは、最後の小さなサイの一振りで決められてしまったといえる。
私自身も何回もあのトンネルを通っている。
そこに運命という言葉を使う余地はないように見える。
世界にいきわたる情報、監視、規則、権力、リスクの計算、責任回避のシステム、ネット依存、ゲーム依存、物質依存など。
そこには運命と呼ばれるものはない、いやそれ以前の偶然性の概念さえ持ち出しにくい。
かつて運命と呼ばれていたものが、単なる完全な暗闇として、何の前触れもなく突然訪れることになる。
ある個人にとっては ”突然の世界のシャットダウン”。