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トランプの機能

トランプの機能と言うよりも、オバマからトランプへの振れ幅の機能と言うべきか。

オバマ元大統領は私の常識に近いものがあったけれど、トランプが大統領になった時は「こんな人が大統領で大丈夫だろうか」と思った。

実際この先どうなるかはわからない。

しかし日本において野田→安倍という交代は私にとってペシミズムを産んだのに対して、オバマ→トランプはその危機感とともに、私の単純な世界における政治観や歴史観を洗いなおすように促される。

オバマとトランプのその離れた間にはとても楽観視のできない大きな両立不可能性が横たわっているのではないか。

たとえば軍事的抑止力は”現実味”がなければ機能しない。ではその”現実味”は”現実”=軍事力行使なしに維持できるのか。

また保護主義は市場のグローバリズム対しては無力なのではないか。そうだとすれば、保護主義は国内の階級、階層を固定化する効果しか生まないのではないか。などなど。

まともな政治家ならばそういうことは既に受け止めたうえで上で政策を検討してゆくだろうけど、野田→安倍からは一般人がそれらを考えるきっかけになるようなものは出てこない。

 

賃金労働における自由とピンハネの根拠について_越境

そもそもその境界線に根拠はあるのか、正統性はあるのか、どうあるべきかなど。

国境を越えようとする難民にとって、それを問うている余裕はない。

また観光のために国境を越えるものにはそれを問う必要はない。

とにかく行く手に境界線がある。軍事政治的にだけではなく文化的にも。

文化はある階級、階層、血族やローカルなエリアで生まれ育まれる。

その文化が越境するとき、支配的になる(俺が一番)かサブカルチャー化(とにかく売れればよい)するというパターンがあると思う。

しかし文化自体が外へ出てゆこうとしなくても、情報はあまねく伝わってゆく。

そういった視線にさらされる宿命にある。

その時文化はローカルなその場所で観光資源となって繁栄する(生き延びる)か、あるいは門外不出、秘密結社になるか。

情報、金のグローバル化によって境界線はなくなるわけではない。

境界線を手続きなどによって”距離”に変換できるのならば、観光は続けられる。

多分、観光資源を枯渇させずに維持させるのに国境が一役買っているのだろう(それだけではないが)。

国境の正当性をその歴史に求めることは不可能なはず。

むしろ今生きている人にとっての国境を超える際のリスク、投機、リセット、故郷を鳥瞰すること(できること)などが国境の存在意義となっている。