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賃金労働における自由とピンハネの根拠_隣人(?)

シリアの難民、あの人たちは隣人か、隣人ではないのか。

ロヒンギャ族の難民、あの人たちは隣人と言えるのか、言えないのか。

酔っぱらって道路に寝ている人、あの人はたまたまそこを通りかかった私にとって隣人と言えるのか。

ギュウギュウづめの通勤電車、この人たちはみんな隣人なのか。痴漢とその被害者は隣人と言えるか。

いじめられている同級生、遠くで(ほかの人の後ろで)みている私にとって彼は隣人か(彼の席は私の席とは離れている)。

隣に住んでる口うるさいそのくせ自分勝手なおやじ、あのくそ親父は隣人か。

(隣に住んでいるんだから隣人と言わざるを得ない)

 

 

賃金労働における自由とピンハネの根拠_隣人

隣人というのはいま隣合わせている人で、それ以外の関係、家族、親戚、目上、目下、友達、同じ帰属など問わない関係。

隣り合わせているという事だけが必要十分条件。

そのことだけが重視される。

辞書などには隣人という言葉の使用例として、”隣人愛”というのが出てくる。

弱い人、困っている人に手を差し伸べるのに確かな根拠となる(隣人という条件以外は無条件)。

また隣人は抽象的な”他者”の具体的実在である。

しかし”他者”と”隣人”を単純な線で繋げてとらえるわけにはいかない。

隣人は隣り合わせているだけというその事実から再び離れて隣人でなくなるか、あるいは単に隣り合わせているだけではない関係に移動(埋没)せざるを得ない。

たとえば知らない人と近づき向き合う時、まずこちらに相手に対する敵意がないことを示し、相手にこちらに対する敵意があるかないか探らなければならない(敵意がなくても危険な存在と言うのもありうる)。

ニコリとして、一瞬でも緊張を解いてみる必要がある。

そうやって距離を縮めることが可能になる、あるいはそれがとりあえず不可能であることが了解できる。

「汝の敵(隣人)を愛せ!」とかなかなか簡単には言えない。

隣人というのは初めて出会う時以外にも、隣人以外の様々な関係性のさなかにふとそれと出会い又去ってゆく関係性である。

省みることのほとんどない関係性に埋没しているさ最中にも、ふと単なる隣人でありうる。

いつも条件を突き付けあっている関係のさ中あっても、無条件に隣人であるというそこを逃さないようにすること。