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東北震災五年目

 東北の震災から5年。

おそらく、
かつてそうであったであろう そこを目指して、
あるいは 今や(震災直後)非力な自分がこれからすべきこと、なしうること、
それらを黙々と努力し続けている人たちが多勢なのだろう。

その黙々としたことに対して、政府の追悼式などのセレモニーはそういった人たちに心理的贖いをもたらすのは理解できる。
心理的解消というのは必要なことである。

 しかし、それは過去の努力に対しての心理的贖いである。
そういった一時的共感から再び自ら漏れ出てゆく必要性もある。
具体的課題はそれがちいさのものであれ常に展開しているはずである。
黙々とした努力はそこに向かわなければならない。
気になるのは(心配なのは)ああいったセレモニーによって問題意識が固着してゆくこと。
あのセレモニーによって何も正当化(終わったことに)されてはならない。

被災者に限らず今生きている人間はすべて”生き残り”である。
”生き残り”が自らの目の前の課題に向き合ってゆけば”現在”において
亡くなった人たちとの交差が発生してくる。
多くの人がそういった経験をしているのではないだろうか。