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賃金労働(サクシュ)における自由とピンハネ(税金等)の根拠(1)

〈飯場〉
 
 20年ほど前、甲府と東京、神奈川県を毎週自動車で行き来していたことがある。
そんなある日、都内に向かう途中、前を走るワゴン車の中におそらくこれから工事現場に向かう人足であろう人達がのっているのが見えた。
少し詰め込まれている感じだった。
私も18歳のころ飯場に入って働いていたことがある。同じように毎日ワゴン車に乗せられ、高速道路を現場まで運ばれ仕事をしていた。
当時も何人も乗るにしては頼りない車に乗せられて高速道路を走られるのはあまりいい気分ではなかったと思うが。外から、ワゴン車の後ろの窓から、当時の自分もああであったであろう人足たちが詰め込まれている姿を見るのはちょっと辛い感じがした。

続く

姓は帰属する家を意味する。
ファーストネームだけではいけないのだろうか。
帰属には個人が選択できるものとできないものがある。
また帰属にはその人が積極的に表明したいものと、どうでもいいものと、その帰属を表明したくないもの、むしろ帰属そのものをやめたいものもある。
(帰属ではないけれどタトゥー、刺青なんかはその人が積極的に選択し決定した象徴、イメージによって自らをそれでしかないものとして規定(拘束と言ってもよい)したものだろう。
”自分はこれでしかない”という宣言は個人が背負うものだ(その撤回、それによる障害、後悔、失敗も含めて))

姓の問題が女性にとって障害をもたらすとすれば、それはむしろ結婚や家、家族の制度そのものの問題ではないか。
別姓の要求に対して「家族のきずな」がどうしたこうしたと言っていたのでは、その肝心な問題に届くことはないだろう。

私(♂)は結婚した時、相手(♀)の姓に変えたけれど、何の障害も感じなかった。
その時、年上のいとこに「姓を変える」と言ったら、「母親のお世話はどうするのだ?」と言われたが、「そんなのは一番近くにいる自分がおせわをするのにきまっているだろ」といってそれで話は済んだ。つまりそれだけの問題でしかなかった。

今日、家が何か意義を持つとすれば、国家や世間に対抗、対立するものとしてだけだろう。
もちろんそれは悪い家(マフィアなど)である可能性が高いが。