-私はここにいます-
”私”が単に他の人からそこにいることを認識されていないためだけににそう発言するのではない。
具体性の欠落を前にして、何かしらの必要性を前にしてその欠落に”私”をあてがっているのだ。
以前から気が付いていた限界。
何も始まらない、何も終わらないまま取り残された人々がただ茫然と見上げる頭上の嵐。
日常的な、取り返しのつかないことたちの進行。
時間も場所もない事態。
とにかく中身も方法も見通しもないまま、具体=”私”をあてがわなければならない。
-そこに私はいません-
《
見当違いに褒められたりすると「そこに私はいません」と言いたくなる。
いわれなき、つまらないことで妻にがみがみ言われている時、幽体離脱を試みる。
》
千の風になったのならば、”私”という人称は使えないだろう。
白く、灰になった骨はあちら側に属し、
墓碑に刻まれた名前はこちら側にべったりと張り付いている。
《パソコンの遠隔操作の犯人が「わたしはそこにはいません(よー)」
と言うとき、「私はあなたたちの気が付かないところにいます」→「私はここにいます」と発言していることになる。と同時に犯人は自分の仕事の成果を快感として享受する。だがその”ここ”を相手にわかるように指さすわけにはいかないという矛盾を抱えることになる。だから犯人は捕まるまで「私は『ここ』にいます」と発信させられる圧力を受け続けることになる。》
どこかを観るように誘われた気もするのだが・・、
風はもう止んでいる。