ボルタンスキー

戦争後の人たちを分類してみると、

1)戦争に勝って生き残り、戦利品として”正統性”を手に入れた人達。

2)殺された人たち。

3)正統性なく生き残った人たち。

私はボルタンスキーはあまり好きではない。

彼が扱っているのは死者ではなく、遺体である。

彼のように遺体を積み上げられるとつらいものがある。

相手が死者であれば、もっと穏やかなやり取りがありうるのではないか。

日本では亡くなった人を火葬するのが一般的になっているが、西洋ではそうでもないという話を聞くと、そのせいではないかもしれないと思う。

ボルタンスキーの作品はユダヤ人への虐殺へと連想されやすいが、ユダヤ人は先祖の遺体を埋葬した位置から決して動かそうとしないそうだ。(ボルタンスキーの展覧会を見た後、美術館のグッズ売り場で購入した養老孟司の「身体巡礼」という本に書いてあった。)

(日本の火葬の普及は核家族化とマッチしているのかもしれない。)

日本でもバラバラな遺体を思わせる作品を制作する人がいるがあれらは意味の派生、対話を禁止する。見る人に単一な反応を強いている気がする。

有ったことを無かったことにしてはいけない。しかし、視点は常に私の足元、今、私の体重のかかっている点からであるべきだ。

私はときどき亡くなった私の家族、父、母、兄のことを思い出すことがある。私が家業を継いだせいももあるだろう、『あの時、父は今の自分のこういう気持ちと同じだったかもしれないなあ』というふうに。

遺体はもっと物質文明的にとらえるべきなのだろうか。

以下、詩として

” ボルタンスキーのロケットは

一時(いっとき)その横腹を見せた後、旋回し、過去へと飛び去ってゆく。

決して爆発することの無い過去へ、延々と。 ”

巡礼、観光、テーマバーク、コスプレ

巡礼/観光
巡礼はそれぞれ唯一の点(位置)に垂直な場が展開する。
観光は水平に、一点にとどまらず面白がることを展開してゆくこと。
最近音楽をyoutubeで聴くことが多い。一人のアーティストがほかのアーティストと一緒にさらに別の人の曲をカバーする。そこから次々とそれまで知らなかった曲やアーティストに出会うことができる。オリジナルに沈み込んでゆくよりもそのほうがおもしろい。
それは観光と巡礼の関係に似ているのではないだろうか。

観光/テーマパーク
テーマパークは人工的に観光が一か所にまとめられたもの。
観光は物理的にも、ひとりひとりの興味においても外へ向かっている。
(リピーターがいないこと(観客であった人たちが観光を目指すこと)がテーマパークの破たんの原因となる)
テーマパークは場所を囲い込んだビジネスである。
その境界線を感じさせないようにすることが要求される。
何より観光にはその観光の対象になるものをさらに豊かにさせる可能性が残されている。

巡礼/コスプレ
巡礼はすべての投入、”私”をむなしくすること。
コスプレは憧れ(自分との遊離)に対しての時間とコストの投入、そしてその見返りとして”祭”りが得られるらしい。巡礼が現実生活の中に位置づけにくいのに対して、コスプレは位置づけられる。架空であることは一時的なことである、そのことがはっきりしていればその架空なことをリアルな生活の時間の中に位置づけやすい。
キリスト教信者でない者が教会で結婚式を挙げるのはコスプレではないだろうか。

監禁致死

大阪寝屋川の監禁致死事件が起きた時、たまたま私は呉秀三、樫田五郎の”精神病者私宅監置の実況”という本を読み終わったところだった。

呉秀三たちは明治の終わりにかけて行政の制度によって実行されている精神病者の私宅監置の実態を調査した。

それをすることによって、客観性、外部とのつながり、情報や方法の共有、より好ましい方法、制度の実現を目指していたのだと思う。

”家”(の中)はご都合主義の温床になるばかりではなく、人殺しも厭わない絶対的な立場関係を作り上げかねない。

しかし、家が外部から隔離されるのは家の中の都合ではなく、外部に対する家の立場といったものが隔離させる圧力として働いているのではないか。

認知症の親から目を離してしまったら、もしかして駅のホームから転落して死んでしまうかもしれない...だけではなく、JRから莫大な損害賠償の訴訟を起こされるかもしれない。

 

黒染め

女子高生の生まれながらの茶髪を教師が黒く染めさせるというこの倒錯。

しかしこの倒錯はその教師一人のことではなく、日本全体を覆っている倒錯だとみるべきではないか。

ルールがみんなのためのものではなく支配者のためのものになっている。

ルール通りに行動することのみに正当性を持たせ、そのルールの趣旨をそれぞれの局面において検討し判断することを放棄させる。

中間管理者は保身、責任逃れのためにひたすらのルールの厳守を部下に押し付けるだろう。(実際には建前や、忖度などを使ってもっと巧妙になってきているはず。)

現場において、そこに正当性を与えてくれるルールがあったとしても、小さな疑問も逃さず追求し、体を張ってしかるべき決断をするのか、それともルール順守よって得られる正当性の中で浮かび上がってくる矛盾に蓋をし倒錯の中に埋没することによってそれに気が付かなくなってゆくことを選ぶのか。

 

トランプの機能

トランプの機能と言うよりも、オバマからトランプへの振れ幅の機能と言うべきか。

オバマ元大統領は私の常識に近いものがあったけれど、トランプが大統領になった時は「こんな人が大統領で大丈夫だろうか」と思った。

実際この先どうなるかはわからない。

しかし日本において野田→安倍という交代は私にとってペシミズムを産んだのに対して、オバマ→トランプはその危機感とともに、私の単純な世界における政治観や歴史観を洗いなおすように促される。

オバマとトランプのその離れた間にはとても楽観視のできない大きな両立不可能性が横たわっているのではないか。

たとえば軍事的抑止力は”現実味”がなければ機能しない。ではその”現実味”は”現実”=軍事力行使なしに維持できるのか。

また保護主義は市場のグローバリズム対しては無力なのではないか。そうだとすれば、保護主義は国内の階級、階層を固定化する効果しか生まないのではないか。などなど。

まともな政治家ならばそういうことは既に受け止めたうえで上で政策を検討してゆくだろうけど、野田→安倍からは一般人がそれらを考えるきっかけになるようなものは出てこない。

 

賃金労働における自由とピンハネの根拠について_越境

そもそもその境界線に根拠はあるのか、正統性はあるのか、どうあるべきかなど。

国境を越えようとする難民にとって、それを問うている余裕はない。

また観光のために国境を越えるものにはそれを問う必要はない。

とにかく行く手に境界線がある。軍事政治的にだけではなく文化的にも。

文化はある階級、階層、血族やローカルなエリアで生まれ育まれる。

その文化が越境するとき、支配的になる(俺が一番)かサブカルチャー化(とにかく売れればよい)するというパターンがあると思う。

しかし文化自体が外へ出てゆこうとしなくても、情報はあまねく伝わってゆく。

そういった視線にさらされる宿命にある。

その時文化はローカルなその場所で観光資源となって繁栄する(生き延びる)か、あるいは門外不出、秘密結社になるか。

情報、金のグローバル化によって境界線はなくなるわけではない。

境界線を手続きなどによって”距離”に変換できるのならば、観光は続けられる。

多分、観光資源を枯渇させずに維持させるのに国境が一役買っているのだろう(それだけではないが)。

国境の正当性をその歴史に求めることは不可能なはず。

むしろ今生きている人にとっての国境を超える際のリスク、投機、リセット、故郷を鳥瞰すること(できること)などが国境の存在意義となっている。

 

 

賃金労働における自由とピンハネの根拠_隣人(?)

シリアの難民、あの人たちは隣人か、隣人ではないのか。

ロヒンギャ族の難民、あの人たちは隣人と言えるのか、言えないのか。

酔っぱらって道路に寝ている人、あの人はたまたまそこを通りかかった私にとって隣人と言えるのか。

ギュウギュウづめの通勤電車、この人たちはみんな隣人なのか。痴漢とその被害者は隣人と言えるか。

いじめられている同級生、遠くで(ほかの人の後ろで)みている私にとって彼は隣人か(彼の席は私の席とは離れている)。

隣に住んでる口うるさいそのくせ自分勝手なおやじ、あのくそ親父は隣人か。

(隣に住んでいるんだから隣人と言わざるを得ない)

 

 

賃金労働における自由とピンハネの根拠_隣人

隣人というのはいま隣合わせている人で、それ以外の関係、家族、親戚、目上、目下、友達、同じ帰属など問わない関係。

隣り合わせているという事だけが必要十分条件。

そのことだけが重視される。

辞書などには隣人という言葉の使用例として、”隣人愛”というのが出てくる。

弱い人、困っている人に手を差し伸べるのに確かな根拠となる(隣人という条件以外は無条件)。

また隣人は抽象的な”他者”の具体的実在である。

しかし”他者”と”隣人”を単純な線で繋げてとらえるわけにはいかない。

隣人は隣り合わせているだけというその事実から再び離れて隣人でなくなるか、あるいは単に隣り合わせているだけではない関係に移動(埋没)せざるを得ない。

たとえば知らない人と近づき向き合う時、まずこちらに相手に対する敵意がないことを示し、相手にこちらに対する敵意があるかないか探らなければならない(敵意がなくても危険な存在と言うのもありうる)。

ニコリとして、一瞬でも緊張を解いてみる必要がある。

そうやって距離を縮めることが可能になる、あるいはそれがとりあえず不可能であることが了解できる。

「汝の敵(隣人)を愛せ!」とかなかなか簡単には言えない。

隣人というのは初めて出会う時以外にも、隣人以外の様々な関係性のさなかにふとそれと出会い又去ってゆく関係性である。

省みることのほとんどない関係性に埋没しているさ最中にも、ふと単なる隣人でありうる。

いつも条件を突き付けあっている関係のさ中あっても、無条件に隣人であるというそこを逃さないようにすること。

 

 

 

 

 

消されてしまった”運命”

時代劇の人気は、わかりやすい運命論にある。

現代における運命というのは、物語の中、もしくはタレント、スポーツ選手という虚構の中にそれを観ようとされているようにみえる。

たとえば2012年の笹子トンネルの崩落事故は設計ミス、保守管理、安全管理の怠慢、不備等、人為的な事故と言えるものであったけど、あのトンネルを通る者は誰があの事故に遭遇してもおかしくなかった。

なぜあの人たちが被害を受けなければならなかったのか。

人災、人間の行為や怠慢による事故には間違いないのだが、しかしだれがあの事故の犠牲になるのかは、最後の小さなサイの一振りで決められてしまったといえる。

私自身も何回もあのトンネルを通っている。

そこに運命という言葉を使う余地はないように見える。

世界にいきわたる情報、監視、規則、権力、リスクの計算、責任回避のシステム、ネット依存、ゲーム依存、物質依存など。

そこには運命と呼ばれるものはない、いやそれ以前の偶然性の概念さえ持ち出しにくい。

かつて運命と呼ばれていたものが、単なる完全な暗闇として、何の前触れもなく突然訪れることになる。

ある個人にとっては ”突然の世界のシャットダウン”。

 

 

 

 

 

 

 

賃金労働における自由とピンハネの根拠_象徴天皇

平成天皇は戦前生まれであり、父親の昭和天皇の仕事を見ていたであろうから、その仕事(第二次大戦に関する)を引き継ぐような意識が強かったのではないか。

今の皇太子が天皇を継ぐとなると、その象徴としての存り方も変わってくるのではないだろうか。

想像するに、新しい天皇は平成天皇のように戦争で亡くなった人、生き残った人達に向き合うという存在であるよりも、日本の家族の在り方を問うような存在になるのではないか。

母親の美智子さんも結婚を反対されて厳しい思いをしてきたみたいだし、雅子さんも病気になったりしている。その時、一番近くにいて彼女たちを孤立から守ってあげたのはその連れ合いだったはずだ。

昭和、平成とは違うリアリティというものを考えるとほかにネタがない気がする。

単なるセレモニーだけでは象徴は成り立たないのではないか。

もう天皇の制度にも限界が来ていると思う。

ましてや天皇を戦前回帰へのネタとして使うことなどとても無理な状況になってきている。